「音楽の父」バッハの作品伝承の背景には、ベートーヴェンなどの偉大な作曲家のパトロン・スヴィーテン男爵の存在がありました。
現代からは想像もできませんが、J.S.バッハが作る楽曲は、同時代の人々からは時代遅れと思われていました。
ですから、バッハの死後、そのまま忘れ去られても不思議はありません。しかしながら、現在バッハは大作曲家として、「音楽の父」とまで呼ばれる存在になっています。
J.S.バッハの作品が現在まで伝わった要因には何が考えられるでしょうか。
ひとつには、息子のC.Ph.E.バッハをはじめバッハの弟子たちの活躍があります。彼らは、自分の弟子たちを指導するにあたってバッハの作品を使用することで、バッハの作品を伝えていきました。
そして、もうひとつは、スヴィーテン男爵の存在です。
ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵
ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵は、18世紀にオーストリアの皇帝に仕えていた人物で、外交官や宮廷図書館長、書籍検閲委員長などを歴任しました。
そして、音楽愛好家であり、特にバロック音楽を好み、楽譜も収集していました。自らも作曲したり、貴族仲間を集めて音楽協会(のちの「ウィーン楽友協会」の前身)を設立したり、ウィーン音楽界への貢献度は多大なものです。
当時のウィーンで活躍するほとんどの音楽家と交友があったということですから、その影響力は非常に大きいものだったのでしょう。
1770年から1777年まで駐プロイセン大使としてベルリンに滞在した際には、フリードリッヒ大王とも親しい交友関係にありました。その縁で大王に召し抱えられていたC.Ph.E.バッハとも知り合います。
そこでJ.S.バッハの音楽を知ることになったスヴィーテン男爵は熱心に楽譜を収集し、ヘンデルやバッハの息子たちの作品も含めたそのコレクションは相当なものでした。
ウィーンに戻ると、毎週日曜日に自宅でバッハとヘンデルの作品を演奏するコンサートを開催していたほど、スヴィーテン男爵は彼らの音楽に傾倒していました。
スヴィーテン男爵は、音楽家のパトロンとして、音楽活動を支援していたことで有名です。スヴィーテン男爵の支援を受け、彼とかかわる中でバッハやヘンデルに触れ、影響を受けた音楽家がいました。
ここからは、スヴィーテン男爵の影響を受けたと言われている3人の人物を紹介します。
影響を受けた人物その1:ハイドン
スヴィーテン男爵に影響を受けた人物の一人は、古典派の代表的作家であるハイドンです。
ハイドンの遺産の中には、バッハの遺した「ロ短調ミサ曲」と「平均律クラヴィーア曲集第二集」の筆写楽譜がありました。
ハイドン作のオラトリオ「天地創造」「四季」に、これらのバッハ作品の影響が見られます。
ちなみに、この2つのオラトリオのドイツ語台本はスヴィーテン男爵の作です。
影響を受けた人物その2:モーツァルト
あの誰もが知る大作曲家・モーツァルトも、スヴィーテン男爵に影響を受けた人物のひとりです。スヴィーテン男爵を通して、モーツァルトはバッハやヘンデルを知ることとなります。
男爵は、ヘンデルのオラトリオ「アキスとガラテア」「メサイア」「アレクサンダーの饗宴」「聖セシリアの祝日への讃歌」の編曲をモーツァルトに依頼しています。
他にも、モーツァルトは「平均律クラヴィーア曲集第二集」の五つのフーガを弦楽四重奏曲に編曲したり、毎週日曜日に男爵のためにバッハのフーガを弾いたりしていたそうです。
ヘンデルやバッハから受けた刺激は、モーツァルトの晩年の作品「交響曲第41番」「レクイエム」等で見られる対位法的書法に結実しています。
影響を受けた人物その3:ベートーヴェン
さらには、あのベートーヴェンもスヴィーテン男爵の影響を受けた人物のひとりです。スヴィーテン男爵と親密な関係にあり、そこでバッハに触れる機会があったと思われます。
バッハの「ロ短調ミサ」にはベートーヴェンも着目しており、作曲中だった「荘厳ミサ」に取り入れたと言われています。
しかし、ベートーヴェンは既にボン時代に「平均律クラヴィーア曲集」を知っていました。
ベートーヴェンの最初の先生であるネーフェがバッハ一族に傾倒していて、教材にバッハの「平均律クラヴィーア曲集」やC.Ph.E.バッハの作品を積極的に取り入れたからです。
そして、「平均律クラヴィーア曲集」をピアノ学習の教材として使用する伝統は、ベートーヴェンの弟子であるチェルニー、そしてリストへと引き継がれていきます。
楽曲の形式に、「フーガ」と呼ばれる形式があります。フーガは、バッハの影響を多分に受けた形式です。
ベートーベンはいろいろな作品の中にフーガの技法を使っており、特に晩年には「大フーガ」と呼ばれる弦楽四重奏曲(作品133)を作曲していますし、後期のピアノソナタや有名な第九交響曲の最終楽章でもフーガがいろいろな場面で使われています。
メンデルスゾーンによるバッハ再興
このように、私たちにも馴染みの深い古典派の作曲家たちがスヴィーテン男爵の影響を受けてバッハに触れたことから、J.S.バッハの作品は後世に伝えられていくことになったと言えます。
そして、1829年にはメンデルスゾーンによるバッハ作「マタイ受難曲」の復活演奏が行われ、大成功を収めました。この出来事によって、ドイツ中、そしてヨーロッパ中にバッハ作品の復活・再評価が広がります。
また、メンデルスゾーンは、音楽作品が可能な限り作曲者の意図に忠実になるよう、それまでの版や手稿譜の研究などを行い、その時代の音楽の演奏のため、または出版のための校訂、編纂作業にも携わりました。
このような取り組みの中で、メンデルスゾーンはバッハのオルガン作品の校訂も行っています。
バッハ作品が現在まで受け継がれる道のり
もともとバッハの作品の中で出版されたものはごくわずかで、鍵盤曲が中心でした。
ところが、没後100年にあたる1850年にバッハ協会が設立され、バッハの全作品を出版するという事業が始まりました。この事業にはメンデルスゾーンやシューマンも参画しています。
この事業で出版された全集が「旧バッハ全集」と言われるもので、50年かかって1899年に最終稿が書かれ、1900年に出版されました。
旧バッハ全集ではバッハの作品を広く世に知らしめて演奏できる形にすることに力点が置かれたため、真偽やオリジナルについての資料考証は必ずしも充分ではないところもあるということです。
それから、旧バッハ全集が完成したその年に、今度は新バッハ協会が設立されました。
新バッハ協会は、バッハに関する研究成果を世に広めるためにバッハ年鑑を毎年発行し、旧バッハ全集から漏れた作品やその後の研究成果により校訂が必要となった作品を出版することを目的としていました。
没後200年の1950年になり、徹底した資料の考証を行うことを前提として再び全集が刊行され、こちらは「新バッハ全集」と言われています(2000年完成)。
このような先人たちの活動があったからこそ、現代の私たちが300年以上昔のバッハの音楽を享受できることを、私たちは心にとどめておくべきでしょう。
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